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ヴィーニョ・ヴェルデ産地ツアー報告 2018 (その4)

古都ギラマエスで地元のワイナリー「アデガ・デ・ギマラエス」の代表とテイスティング&ランチの巻

ヴィーニョ・ヴェルデ・ツアー2日目は、2001年にユネスコの世界遺産に指定されたポルトガルの古都ギマラエスの観光から始まった。
その1その2、そしてその3は、それぞれをクリックしてください。

12世紀にポルトガルの独立を宣言し、初代ポルトガル国王となったアフォンス・エンリケスが誕生したギマラエス城。父親はブルゴーニュの貴族だった。写真はプレス用資料より。

サンティアゴ広場

丘の上の元修道院のホテルから小型バスに揺られて最初に行ったのは、初代ポルトガル国王が生まれたギマラエス城だった。休館日だったので外からしばし眺めるにとどまったけれど、考えてみたら、ポルトガルの歴史について自分はなんにも知らないことに気づいた。

ポルトガル発祥の地とされるギマラエスは、中世さながらの街並みが残る古都だった。10世紀、ポルトガルという国はまだどこにもなかった。この地方の信仰心の厚い貴族の未亡人が自分ちの荘園にサンタ・マリア修道院という修道院をつくった。その修道院を北から襲ってくるノルマン人、つまりバイキングと南からやってくるイスラム勢から守るために城が築かれた。11世紀の終わりなると、イベリア半島はキリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)のさなかにあった。時が過ぎ、11世紀の終わりになると、人口が増えて、街ができた。

アフォンス・エンリケスがギマラエス城で生まれたのは12世紀の前半で、ギマラエスの街にはその頃つくられた建築物がいまも残っている。

旧市街の中心プラサ・デ・サンティアゴ(サンティアゴ広場 Praça de São Tiago)。11世紀の街並みをいまに伝える。

隣のオリベイラ広場のオリベイラ協会の前のゴシック様式のアーチ。1340年のサラードの戦いの勝利を記念してつくられた。このアーチがある広場はサンティアゴ広場から続いている。

街のカフェでコーヒーを注文したら85セントだった。

「ここにポルトガル誕生す」と書かれた外壁。

地元のワイナリー「アデガ・デ・ギマラエス(Adega de Guimaraes)」の代表ジョセ・ブラーガ(José Braga)さんとエノロゴ(ワインメーカー)のペドロ・カンポス(Pedro Campos)さん、ふたりを囲むテイスティング・ランチはこの世界遺産の街のなかにある、庶民的な食堂「アデガ・ドス・カキンホス(Adega dos Caquinhos)」で開かれた。

「アデガ」というのはポルトガル語で「ワイン醸造所」と「ワインセラー」、ふたつの意味があって、アデガ・ドス・カキンホスは呑み屋時代の名前をそのまま使っているらしい。おかみさんがひとりでつくるポルトガルの伝統料理を出す店で、地元のひとにも人気があるという。私の席から振り返ると、彼女が黙々と料理している後ろ姿が見えた。

黙々とお料理中。

アデガ・デ・ギマラエス、正式にはAdega Cooperativa de Guimarães(「ギマラエス協同組合ワイナリー」)は、ギマラエス周辺の82のワイン醸造業者が集まり1962年に設立された。大西洋に面した大都市ポルトから北東に60km走った内陸で、ヴィーニョ・ヴェルデのサブ・リージョンとしては「アヴ」地区に属している。

「50年以上の伝統を持つ古い組織です」と代表のジョセさんは誇らしげに言った。創立時は国内のみの販売だったけれど、最近は輸出が重きを占めるようになっており、日本市場は魅力的なので、なにが求められているのか知りたい、とみずからの目的を率直に述べた。

「日本には1億人いる。ここはその10分の1しかいない」

「東洋の日本と西洋のポルトガルの文化は遠く離れている。でも、ヴィーニョ・ヴェルデを介して通じるものがあるのではないか、というのが私の考えです。ワールドカップでも、ポルトガル人は決勝に進んだ日本を応援していたし、日本の人びともポルトガルを応援してくれていたと思う」と続けた。

なんせポルトガルにはクリスティアーノ・ロナウドがいるからねー、と私は内心思ったけれど、黙ってふむふむと聞いていた。この日は7月5日(木曜日)で、サッカー・ワールドカップ・ロシア大会たけなわ。ポルトガルは6月30日にウルグアイに2-1で、日本は7月2日にベルギーに先取しながら3-2で敗退したばかりだった。

右から、「サンティアゴ広場」のロゼ、「ギマラエス」の白をはさんで、「サンティアゴ広場」の白と赤。

これぞヴィーニョ・ヴェルデ

テイスティング用のワインは全部で4本。基本的にギマラエス協同組合ワイナリーは「プラサ・デ・サンティアゴ(サンティアゴ広場)」と「アデガ・デ・ギマラエス(ギマラエスのワイナリー)」の2本立てで、それぞれに白とロゼと赤がある。ポルトガル語で記すと、ブランコとロゼとティントである。そのラインナップから、まずは「サンティアゴ」のロゼから始まった。

「プラサ・デ・サンティアーゴ・エスパデイロ・ロゼ」という名称で、日本ではメルカード・ポルトガルが販売している。

「珍しい希少な品種」とジョセさんがいう赤ブドウ品種のイシュパデイロ100%で、溌剌としたロゼ色のこれはラズベリーなど赤い果実の香りがして、口に含めば甘くて酸味がきかせてあって、微発泡でさわやかである。この地区で賞をとっているそうな。アルコール度数は10.6度と軽く、残糖は13.2g/dm3とたっぷり。酸は酒石酸が7.2g/dm3。絵に描いたようなヴィーニョ・ヴェルデのロゼである。ヴィーニョ・ヴェルデのロゼなのだから当たり前だけれど、ヴィーニョ・ヴェルデのロゼを飲んだことがある方にはわかっていただけるのではないか。

全体の8割が白を占めるヴィーニョ・ヴェルデにあって、「サンティアゴ」は白70%、10〜15%がロゼで、残りは赤。昔はロゼといっても白ワインに色をつけただけだったが、前述のように、いまはちゃんと赤ブドウ品種を使ってつくっていて、ドイツやフランス、ポーラントなどで人気だという。

典型的なヴィーニョ・ヴェルデ。

ロゼのあと、「ギマラエス」の白が注がれた。ロウレイロ、アザール、トラジャドゥーラ、それにアリントのブレンドで、アルコールは10.7度と、糖は11.4g /dm3、酸は6.4g/dm3としっかりあって、「これこそ典型的なヴィーニョ・ヴェルデ」とジョセさんが言った。

続いて、「サンティアゴ」の白が注がれた。こちらはブドウを選抜して使っているところがミソで、ロウレイロ40%、アリント40%、そしてトラジャドゥーラ20%の3種をブレンドしている。アルコールは12.5度、糖は8.4g/dm3、酸は5.6g/dm3。どちらも微発泡だけれど、この数字を見ると、サンティアゴの方がアルコール度が高くて甘さも酸も控えめ。

「『サンティアゴ』のほうがインテンス(強い)で、少しアリント。ちょっと違う」とジョセさんは表現した。

アリントは内陸部で栽培されているものが良質とされていて、果汁は中度から高度の糖度と、高めの有機酸をもち、シトラス、熟したリンゴ、モモの香りがする。ようするに、同じ白のブレンドでも、こちらの方がちょっぴり高級なのだ。

バカリャウのコロッケ。

テーブルにはコロッケのような料理が並んでいた。

「ポルトガルはまだ貧しい。地方の特に、都会に出て行かないで残ったひとたちは自給自足で暮らしている。典型的ポルトガル料理はお金を使わない。バカリャウ(干しダラ)の尻尾とジャガイモを揚げたら、こんな美味しいものができた」とジョセさんが言った。食べてみると、素朴で、どこか懐かしい味がした。

最後に「サンティアゴ」のティント(赤)を味わう。

白い茶碗で飲むと、ガラスがまだ普及していなかった時代のひとになった気分になる。

ニッポン人にはおなじみのカレー味の豆の煮込み。白いごはんも出た。

紹介するにあたってジョセさんは「これこそワイン! 典型的なこの地方の」と嬉しそうに言った。赤を冷やして飲むことは初日のテイスティングで知っていたし、グラスではなく、白い陶器に注がれることも、実は前日のディナーで体験済みだった。

「マルガス(Malgas)」と呼ばれるこの白い湯飲みならぬ、ティント飲み茶碗に赤を注ぐと、紫色の液体がグラデーションをつくりだし、そのグラデーションを愛でながらチビリと味わう。

渋い。渋いけれど冷やしてあるので気にならない、ということは前にも書いた。

ブドウ品種はヴィニャオン100%。果汁は豊富な糖分を含んでいるということだけれど、アルコールは12.2度、糖は2.4g/dm3と少なく、酸は7.6g/dm3もある。微かに発泡していて、さわやかな余韻があった。なによりもポルトガルの伝統料理にピッタンコである。

ひとつだけジョセさんにたずねたいことがあった。アデガ・デ・ギマラエスでは、ロゼに0.7気圧、白には0.8気圧、赤には0.4気圧、炭酸ガスを加えているという。そのおかげでどれもさわやかさが感じられるわけだけれど、ちょっと待ってください。炭酸ガスが加えられていると聞くとコーラとかサイダーを思い浮かべはしないだろうか。そこは農産物であるワインにとってはどうなのだろう、と。

「ヴィーニョ・ヴェルデの歴史と伝統、われわれの会社の規模や立ち位置を考えると、バランスがとれている。われわれは伝統的な道を行く」。ジョセさんはそうきっぱりと答えた。

好調な輸出に支えられ、アデガ・デ・ギマラエスのボトルは前年比30%増の勢いだそうである。前年比30%の右肩上がりのさなかに方針を変える経営者はいないだろう。

「日本、ブラジル、アメリカをターゲットにさらに売りまくりたい。われわれのワインは発泡性の軽いワインだからチリに勝てる!」とジョセさんは語った。

アデガ・デ・ギマラエス代表のジョセさんとエノロゴのペドロさん。ランチ終了後に撮影させてもらったので顔が赤い。

なお、主力商品の「プラサ・デ・サンティアゴ」とは、お気づきの方はお気づきのように、ギマラエスの中心のサンティアゴ広場のことである。ギマラエスの協同組合のひとたちは、街の誇りである聖人サンティアゴを讃える広場と同じ名前を主力製品につけた。彼らのいう聖人サンティアゴは「エルサレムを奪回しよう」と呼びかけ、イスラムとの戦いで亡くなった。亡骸がスペインに戻る途中、ギマラエスに指が1本残った、という伝説がある。

つまり彼らは、筆者の想像に過ぎないけれど、たとえば京都の伏見の造り酒屋が京都人の誇りを持って伝統的な日本酒を世界に売り出そうという姿にも似ている、のかもしれない、と思ったのだった。そういう伏見の造り酒屋が実際にいるかどうかは別にして、ポルトガルの京都ギマラエスに住むギマラエス人のアイデンティティの投影、といったものを彼らの「プラサ・デ・サンティアゴ」から感じたのである。

そう書くと、なにかおどろおどろしたものを感じさせてしまうけれど、もちろんそうではない。「アデガ・デ・ギマラエス」のヴィーニョ・ヴェルデはあくまでさわやかなヴィーニョ・ヴェルデだった。実際、私は帰国後、たまたま東京で「プラサ・デ・サンティアゴ」のロゼと白を再び試飲する機会を得て思った。

『これぞヴィーニョ・ヴェルデだ!』と。

つづく

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