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モエ・エ・シャンドン モエ アンペリアル 150周年イベントに行く

醸造最高責任者ブノワ・ゴエズとの対話

4月末、モエ・エ・シャンドンの代名詞「モエ アンペリアル」の誕生150年を記念するプレス向けのイベントがフランスはシャンパーニュ地方エペルネのモエ・エ・シャンドンの本拠地「ホテル・モエ」と迎賓館「オランジェリー」で開かれた。醸造最高責任者ブノワ・ゴエズの隣に座った「ワインホワット!?」副編集長が、現代のラグジュアリーについてゴエズと語り合った。

Impérial(皇帝)の頭文字「Ⅰ」が刻まれた150年目のアニバーサリーイヤーを祝う限定ボトル

シャンパーニュの皇帝

ワインの業界では、「ブリュット」という言葉が、糖分量1リットルあたり12g以下の辛口シャンパーニュ、という本来の意味よりもむしろ、それぞれのシャンパーニュメゾンのラインナップのうちで、もっとも数多く造られ、ゆえに価格的に手頃なノンヴィンテージシャンパーニュという意味で、ともすれば使われる。

しかし、「ブリュットでしょ」などと通ぶって、気軽にその前を通り過ぎてしてしまうのだとしたら、シャンパーニュという特別なワインと、そのブリュットの現代性に酔いしれる喜びを自ら減らしてしまうかもしれない。

モエ・エ・シャンドンのモエ アンペリアルは、150年前、ブリュットとして生まれ、ブリュットをシャンパーニュの代表格にまで導いた立役者だ。このシャンパーニュの現代性は、世界中の王侯貴族、芸術家、銀幕のスター、スポーツの英雄たちを魅了し、いまも魅了し続けている。アンディ・ウォーホールやカトリーヌ・ドヌーヴがともに写真に収まり、セナが、プロストが、ミカ・ハッキネンが表彰台で味わった勝利の美酒。


アンディー・ウォーホールと女優コーネリア・ゲスト。1985年、ニューヨークにて
©Ron Galella

1993年のF1 日本グランプリの勝者を祝ったボトルが今も残る。アイルトン・セナ、アラン・プロスト、ミカ・ハッキネンのサインがある

シャンパーニュ地方エペルネにあるモエ・エ・シャンドンの本社には、そこを訪れた著名人のうち、何人かの名前を、時代順にならべたリストがあるのだけれど、そこには日本であれば英国留学時代の徳仁平成天皇や中曽根康弘元内閣総理大臣の名前もある。そして、そのリストの最初に記されている名は、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルト。モエ アンペリアルのアンペリアルとは皇帝の意。このシャンパーニュの皇帝は、モエ・エ・シャンドンの愛好家にして庇護者だったフランスの皇帝の生誕100年を祝って、1869年に世に出た。

モエ・エ・シャンドンの本社である「ホテル・モエ」。ユネスコの世界遺産に登録されている

これが、モエ アンペリアルの記念すべき最初のボトル。残念ながら中身は揮発してしまっている。ボトルには、モエ・エ・シャンドンが今も使う書体で1869と書かれている

モエ・エ・シャンドンの醸造最高責任者に2005年、35歳の若さで着任し、いまも同じ立場でモエ・エ・シャンドンを率いる、ブノワ・ゴエズが、モエ アンペリアルの150年目にあたって、あらためて語った話
から、なぜ、ノンヴィンテージのブリュットは、シャンパーニュを代表し、モエ アンペリアルの150年がかくも華やかな人々とともにあるのか、その理由が見えてくる。

ブノワ・ゴエズ
モエ・エ・シャンドンの醸造最高責任者

甘味の贅沢

シャンパーニュがそもそも甘かった、という話はワイン好きならおそらく耳にしたことがあるだろう。ブノワ・ゴエズはこう言うーー

「150年前、モエ アンペリアルがブリュット アンペリアルの名で生まれたとき、世界の一般的なシャンパーニュの糖分量は、もっともドライだったイギリス向けでも100g/リットルくらいだったといいます。一番甘口だったロシア向けは200から250g/リットル程度。フレンチスタイルはその中間で200g/リットル前後でした。ブリュット アンペリアルはその時代に、100g/リットル以下の糖分量で、〝ブリュット〞を名乗りました」

ゴエズは、「もちろん、私は最初のブリュット アンペリアルを飲んだことはありませんが、ブリュットといっても、いまでいえばソーダですよね」と微笑んだ。参考までに日本コカ・コーラの公式情報によると、コカ・コーラの糖分量(炭水化物(糖質+食物繊維)の数値)は1リットルあたり113gだそうだ。

「甘いことは、贅沢なことでした」とブノワは続けた。

とりわけフランスのようなサトウキビが育たない北方の国において、砂糖は人気が高く、そして貴重品だった。大航海時代には香辛料と等しい価値をもち、19世紀に至っても、サトウキビを産出する南国の植民地、たとえばキューバは極めて裕福な土地だった。

それを北方においても甘くなる果実、ブドウと組み合わせた、発泡し、きらめくワインであるシャンパーニュの甘露は、どれほど贅沢だっただろう。

モエ・エ・シャンドンの最初の庇護者のひとりはポンパドゥール夫人。そしてナポレオン・ボナパルト。ロシア皇帝アレクサンドル1世、プロイセン国王フリードリッヒ・ヴィルヘルム3世、フランス国王シャルル10世、ルイ・フィリップ、ルイ・ボナパルトがそれに続く。

モエ・エ・シャンドンのセラーを創業者クロード・モエから数えて3代目の代表、ジャン・レミー・モエとともに訪れるナポレオン・ボナパルト

ナポレオン・ボナパルトをふくめ、ボナパルト家からの注文をまとめたノート

モエ・エ・シャンドンに魅了された人々のリストが、あたかも欧州の歴史の教科書のようなのは、そんな人でもなければ、この贅沢を思う存分楽しめなかった、という理由もあるだろう。

そして、その甘味なシャンパーニュからブリュットへと、モエ・エ・シャンドンが舵を切ったのは、ルイ・ボナパルトこと皇帝ナポレオン3世の治世の末期だったことも興味深い。

1870年、普仏戦争での敗北とパリ・コミューンによってフランスは第三共和制へと移行した。現代のブリュットと比べれば、まだまだ甘口だったとはいえ、ヨーロッパのベル・エポックが幕を開ける頃、市民社会の誕生とともに、シャンパーニュはブリュットへと変化していった。そこには、封建的なラグジュアリーといよいよ別れ、現代におけるラグジュアリーとはなにかという問いと、それへの解答が潜んでいるようにおもえてならない。

ブリュットの誕生

「当時はAOCの規定もブリュットの定義もありません。まだ、シャンパーニュ全生産量の1%にも満たなかったブリュット。しかし、シャンパーニュの革命はそこからはじまったのです。それは、ドザージュを減らす旅です。19世紀のシャンパーニュはいまよりもずっと寒く、ブドウの糖度は上がらなかったでしょう。醸造や発酵には樽を使い、畑での労働は馬と人間によってなされていました」

しかし、技術はまさに日々進歩していた。蒸気機関からレシプロエンジンへ、鉄道から航空機へ。そしてブドウの栽培ノウハウも蓄積し、そこに温暖化も後押しする。

「いまではステンレスタンクがあり、トラクターがあります。私はここでノスタルジーを語りたいわけではありません。技術の進歩によって、より精密な表現が可能になったのです。ブリュットのシャンパーニュを特徴づける、繊細さ、爽やかさ、軽やかさを問い、表現できるようになっていったのです」

その技術の意味を、ゴエズはこう表現する。

「それで一番変わったもの、それは精神です。最大の喜びを、より多くのお客様に届ける。それがアンペリアルの使命なのです。そのために、問い直し、再解釈する。それがモエ・エ・シャンドンの命脈を保ちます」

ゆえにモエ アンペリアルは時代にあわせて変わってゆく。

「モエ アンペリアルはお客様あってのものです。期待される味があり、高い品質を保ち続けなくてはなりません。私はそこに伝統という言葉をあまり使いたくない。継続することに縛られてしまうからです。私はすでに成功しているアンペリアルを変化させず、続けていくこともできました。しかしそうしなかった。ドザージュは11g/リットルだったものを2005年に9gにして、この2年間は7gにまで減らしています。また、リザーブワインの使用量も私が働き始めた21年前は15から20%くらいでしたが、いまは30から40%です」

ノンヴィンテージ シャンパーニュの強みは、その年に収穫されたブドウだけでなく、過去に収穫されたブドウから造ったワイン、リザーブワインをブレンドできることにある。

「モエ アンペリアルは出荷までに最短でも2年間、セラーで熟成しますから、リザーブワインをこれ以上増やすと、熟成感、厚みが出すぎてしまいます。ただ、約1,200haの自社畑の50%がグラン・クリュ(特級)、25%がプルミエ・クリュ(一級)のモエ・エ・シャンドンにあっても、ブドウが毎年素晴らしいという保障はないのです。品質の担保にリザーブワインをもっと使おうと判断したのです」

ユネスコの世界遺産に登録されているモエ・エ・シャンドンの地下セラー。総延長28kmはシャンパーニュ地方最大。ナポレオンが訪れたことを示すプレートや、ナポレオンの訪問の際に贈られたナポレオン カスク(樽)など、皇帝の痕跡がある。現在は私たちも見学できる

独自の分類法で整理され、熟成されるシャンパーニュ

モエ・エ・シャンドンはシャンパーニュのおよそ230の村のブドウを手に入れることができ、ここにリザーブワインも加わる。アンペリアルを造るにあたっては、500から600のワインが選択肢としてあって、そこから、1年に3種類のブレンドを造るという。

「ブドウの収穫は1年に1回でも、最初に出荷されたボトルと最後に出荷されたボトルとの間には1年の開きがあります。ワインはその間に変化します。だから1年1ブレンドでは、お客様がブリュットに求める爽やかさ、繊細さ、軽快さに応えるという使命を全うできません。最初に出荷するブレンドでは、リザーブワインの量を50から60%にしてボディを補いますが、セカンドブレンド、サードブレンドでは、リザーブワインを減らします。これはほかのモエ・エ・シャンドンのシャンパーニュにはない特徴です。モエ アンペリアルはビスポークなのです」

そして、モエ アンペリアルは、若々しさが失われないうちに、具体的にはデゴルジュマンから6カ月以内に飲んでもらいたい、という。

「澱を取り除くデゴルジュマンはワインにとっては手術のようなもの、ドザージュは傷ついたワインを治療する薬のようなもので、そのあとは、しばらくゆっくりと寝て快復につとめます。モエ アンペリアルは若いワインですから、ヴィンテージシャンパーニュよりも快復はずっと早く、3カ月で出荷できます。シャンパーニュを出て、世界中の人々の手元に届くまでに、長くて3カ月程度かかりますが、それを超えたら、私達のデザインした完璧なバランスは崩れてゆくとおもいます」

つまり、シャンパーニュから遠い、日本のような国では、モエ アンペリアルは、飲みたくなったら買ってきて、すぐに飲むのが正解だ。しかし、例えばフランスと日本とでは、味の好みも違うはず。

「ですから私はモエ アンペリアルのテイスターに多様性を持たせました。年代は20代から60代まで、男女は半々、出身国も多彩です。そして私はチームの合意なく決定することはありません。チームで語り合い、ベターな選択をするのです。ヴィンテージを造るときは、もっとリスクを犯します。しかし、アンペリアルではコンセンサスが必須です」

現代のラグジュアリー

そして、現代のラグジュアリーへの解答が示される。

ここまで話を聞いたうえで、では、モエ アンペリアルをモエ アンペリアルたらしめるものはなにか、と問うと、饒舌なブノワ・ゴエズは、しばらくの沈黙のあとにこう答えた。

「シンプリシティです」

そして、こう解く。

「私の言うシンプルはイージーを意味しません。無数のディテールの統合(ジンテーゼ)として到達するシンプリシティです」

無数のディテールとは、例えば、ピノ・ノワールのストラクチャーであり、シャルドネの溌剌とした爽やかさであり、それらをつなぐ、ゴエズによればもっとも重要なムニエの存在、そして、それらブドウの産地と育った気候、年、若さと熟成の多様性である。ゴエズはモエ アンペリアルから、それら個別の要素を見つけ出すことも可能だ、という。

しかし、それらは、モエ アンペリアルというジンテーゼのうちに潜み、主張しない。

「私は料理人によく言います。もっと減らせるものはないのか、と」

筆者はこの晩、モエ・エ・シャンドンが「オランジェリー」と呼ぶ迎賓館で開催したディナーの席でゴエズの言うものを実感した。

モエ・エ・シャンドンの迎賓館「オランジェリー」

「オランジェリー」でのディナー

このとき、モエ・エ・シャンドンは1つの料理を2つの解釈で提供する、というコースを用意した。1つは1869年の料理を再現したもの。1つは2019年に同じ素材で料理したらこうなる、という現代の解釈。

1869年テイストは、バターもオイルもマヨネーズも、塩も砂糖も、ふんだんに使う。これはわかりやすく贅沢だ。

しかし、これであれば筆者でも、材料さえ揃えられれば真似できそうだ。しかし2019年テイストのほうはずっと繊細なニュアンスで、どんな材料でその料理がつくられたかはわかっても、料理として真似することは、素人にはちょっと不可能だ。ヴィジュアルの美しさも含めて。

ロシアンサラダと呼ばれる、1860年代にモスクワのエルミタージュで考案されたとされるフランス料理。左が1869年風、右が2019年風。基本となる素材はおなじながら、もはやまったく別の料理だ

そういえば、ブノワ・ゴエズはフィンセント・ファン・ゴッホを例に出して、こんなことも言っていた。

「私は、アンペリアルが生まれたのと同年代を生きた画家の最初の作品を見たことがあります。それは、我々がゴッホと聞いてイメージする絵画とは違い、ゴッホがアカデミックな絵画を描こうとおもえば、それが充分にできるだけの基礎があることを証明していました」

時代が異なれば、ゴッホはアカデミズムを極め、王侯貴族のような限られた人に愛される職人画家として生きていくこともできたかもしれない。しかし時代はすでに、技術の先にある表現を問うようになっていた。ラグジュアリーにしても、生活に不安があって、必需を満たすことすら容易ではない時代に、必需を超えた余裕をもつこと、というそもそも意味では、現代において、イージーにシンプルすぎる。ぼくたちはもう飢えない。甘い物も、余るほどある。

だから、モエ・エ・シャンドンは150年前、シャンパーニュを問い直したのだろう。時代に鈍感で、ブリュットを選ばなければ、シャンパーニュは他のワイン、あるいはソフトドリンクやチョコレートバーとの競争に負けていたかもしれない。しかし、そうはならず、シャンパーニュは職人的技術の先にある作品として、今日ある。

276年のノウハウをもち、シャンパーニュのほとんどの村にアクセスでき、もっとも多く売れているモエ・エ・シャンドン。前提をこれ以上なく満たしたうえでのシンプリシティの表現として、モエ アンペリアルはある。この意味において、モエ アンペリアルは現代のラグジュアリーを高度に体現する。

1984年、カトリーヌ・ドヌーヴのパリでの一夜
©Copyrighted work

ジャッキー・スチュワート。1971年、シルバーストーンでのF1イギリスグランプリ優勝時。生涯に3度、F1を制した英国人の2度目のチャンピオンの年
©Chris Smith, Getty Images

1965年、ポール・ニューマンの40歳の誕生日
©HuffSchmitt SIPA

2012年にモエ・エ・シャンドンのアンバサダーとなったロジャー・フェデラー
©Giampaolo Sgura

 

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