ルーシヨン・ワインの基礎

南北の二つの地区別に見るルーシヨン・ワインの魅力再発見

ルーシヨン・ワインはラングドックのサブリージョンでもなければ、スペイン・ワインの延長でもない。独自の文化と、色々な個性の持ったルーシヨン・ワインの魅力を地質・風土の観点から眺めたい。
モリーの土壌、石灰岩 

2017年のフランス大統領選挙が終わった。

今期の大統領に就任したのは、エマニュエル・マクロン(Emmanuel Macron)。いきなり登場した新人で、若干39歳の若さながら、より開放的でリベラルな思想を掲げた。彼が当選したことは、グローバル化を望むフランス人の未来を象徴する結果であったといえる。

最後まで彼と大統領選を争ったのは、極右派、FN(Front National)のマリーン・ル・ペン(Marine Le Pen)。国粋主義者のジャン・マリ-ル・ペンの娘にして、初女性大統領の当選をめざし、15年前の選挙戦時の父を思い起こさせる奮闘をみせた。EU脱退と、ユーロを廃止してフランを復活させる、外国人労働者の制限などの過激な公約を掲げた彼女が支持を集めたのは、異国との国境沿いの県であった。

フランス南部のスペインとの国境、ピレネー・ゾリエンタル(Pyrénées-Orientales)県においてもその例にもれず、第一次選挙では、この地方において彼女は最多票を集めた。国粋主義的な思想が力を延ばすのは、決まって移民の多い地方である。ここの県都ペルピニャン(Perpignan) でも、問題は深刻で、街の中心部においてもスラム化した場所が散見される。アラブ人たちの溜まり場や、ジプシーの住み着いた一角が、何も知らずに訪れる観光客を不安にさせる。相次ぐテロがおこるのも、こういった移民地帯にテロリストが身を潜めやすいために他ならない。

ルーションの地図

この地方のワインがAOC法の枠組みとして登場するのは、1951年である。南部地区のルーシヨン・デルザスプル( Roussillon dels Aspres )というVDQS ( Vins Délimités de Qualité Supérieure)が生まれ、翌1952年には 北部も、コルビエール・デュ・ルーシヨン( Corbières du Roussillon )、コルビエール・シューペリウール・デュ・ルーシヨン( Corbières Supérieures du Roussillon )という名のVDQSが誕生。1972年10月3日には、VDQS コート・ド・ルーシヨン (Côtes du Roussillon)として統合され、上位格付けのコルビエール・シューペリウール・デュ・ルーシヨンは、VDQS コート・ド・ルーシヨン・ヴィラージュ (Côtes du Roussillon Villages)として生まれ変わった。AOC入りするのは1977年、今年で40年である。

 

このピレネー・ゾリエンタル県に位置する、ルーシヨン(Roussillon)というワイン産地はもともと、異文化多様性に富んだ地であった。紀元前の時代、ルーシヨン南部のカニグー(Canigou)山では鉄が採れたために、それが古代ギリシアのコリントスに輸出された。葡萄畑の歴史は、そのギリシア人によってもたらされたのだ。ローマ人が地中海の覇権を争った時代では、カルタゴの名将ハンニバルが象を率いてピレネー山脈を越えた場所として記憶に深い。

その後のローマ帝国時代が終わると、462年にはゲルマン民族の西ゴート族に支配される時代があり、720年にイスラム教徒に一時支配された。750年代になると、カロリング朝フランク王国領となり、中世にはバルセロナ伯領、継いでマヨルカ王国の一部となる。よく知られているように、ルーシヨン地方は、スペイン東北部と同じく、中世以降はカタルーニャ(仏,Catalan)人の地であった。

いわゆる現在のスペインとフランスの曖昧な国境線が、ルーシヨン北のコルビエール山脈を境に、線引かれていた。特に山岳地帯は、南部フランス語のオック(Oc)語を解するオキシタン(仏,Occitan)人が棲んでいて、中世にはカタリ(Cathare)派と呼ばれるキリスト教異端宗派が隠れ住むのに絶好の場所となった。カタリ派の一派が最後の最後まで抵抗しつづけて根城にしていたのが、今日甘口ワインの生産地として知られるモリー(Maury)のすぐ横にそびえ立つ、ケリビュス城である。

このケリビュス城がフランス王に下り、カタリ派が漸く一掃されると、1258年のコルベイユ条約によって、北のフヌイヤード(Fenouillèdes)の地はフランス領となった。今なお残る、オック語を解する民族とカタラン語を解する民族が互いに棲み分けるようになったのはこの時であった。

どちらの言語も、10世紀頃にラテン語に西ゴート族のゲルマン語が混じって形成された言語であるが、やはり異なった文化を有している。三十年戦争後(1648年)のピレネー条約(1659年)で、ピレネー山脈以北の場所は、最終的にフランス領として取り決められた。フランス人は言語に対しとても厳格なので、自国領に組み込むや否や、カタルーニャ語を弾圧したが、カタルーニャ人の多くは自分たちの言語を密かに守り続けた。そして今なお、彼らはピレネー山脈以南のカタルーニャ人と同じ文化を共有する一つの共同体であると思っており、カタルーニャ愛好家による団体、ノストラ・テラ(Nostra Terra)は自分たちのことを、北カタルーニャ(Catalogne Nord)と名乗っている。

このように北はラングドックをコルビエール山脈、東は地中海、南はピレネー山脈と、四方を囲まれたルーシヨンは、古代より、多くの民族が移りすみ、移動し、交差する文化のクロスロードなのであった。

アグリー川

オード県から、ピレネー・ゾリエンタル県北部を流れ、リヴザルト村を通って流れるアグリー河(L’Agly)。ルーシヨン最良の畑は、この河沿いに集中する。

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染谷 文平
こんにちは、フランスに滞在中のソムリエです。現在、パリの一つ星レストラン、Neige d’été(ネージュ・デテ)にてシェフ・ソムリエの職についております。レストラン業を続ける傍ら、ワイン造りをより深く知るために、Bourgogneと Alsaceにてワイナリー勤務も経験しました。ワインが生まれる風土、環境、歴史に強く関心があり、ブログ(http://fwrw.blog137.fc2.com
も綴っております。Wine Whatでは、生産者の生の声や、ホットな情報をいろいろと書いて行きたいと思います。

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